かつて東南アジア随一の国際都市として栄えたアユタヤ王朝。
その王都の一角に、400年前に日本人が築いた町が存在していたことをご存じでしょうか!
それが、現在「アユタヤ日本人町跡(Japanese Village in Ayutthaya)」として知られる場所です。
観光客の多くがワット・マハータートやワット・プラシーサンペットなどの有名遺跡を巡る中、人里離れた一角には、日本とタイの交流史の原点が眠っています。
今回は、アユタヤ日本人町の歴史的背景・見どころ・アクセス方法をお伝えします。
目次
アユタヤに誕生した日本人町とは
17世紀初頭、江戸幕府の朱印船貿易によって多くの日本人が海外へ渡航し、アユタヤもその目的地の一つで、交易や傭兵として活動する日本人が急増したのだとか!
王都の南東部に形成されたのが「日本人町」ということです。
最盛期には約1500人〜3000人の日本人が暮らしていたとされ、彼らは商人、職人、侍、僧侶など多様な身分で構成され、自治組織を持つ“日本社会”を築いたのです。
また、周囲には中国人町、ポルトガル人町、オランダ人町なども存在し、当時のアユタヤはまさに“アジアの貿易ハブ”だったのだとか!
リーダーの山田長政とアユタヤ王国
日本人街の中心人物が「山田長政」です。
静岡県清水出身ともいわれ、アユタヤ王に仕え、軍を率いて功績を挙げた日本人傭兵隊長で、彼の名は今でもタイではよく知られ、教科書にも登場する程です。
山田長政は、アユタヤ王国の防衛や交易において重要な役割を果たし、タイ側からも「忠誠心と勇気の象徴」として高く評価されています。
彼の存在は、単なる武人にとどまらず、日タイ関係の黎明期を築いた人物として位置づけられ、日本人町の博物館には、山田長政の銅像が立っています。
日本人町の繁栄と衰退
アユタヤ日本人町の繁栄は、1630年代を境に急速に衰退します。
その背景は、王位継承をめぐる内乱と、山田長政の死です。
彼が戦死した後、日本人傭兵団は政治的な対立に巻き込まれ、日本人町は焼き討ちに遭い壊滅し、さらに、1635年に日本国内で鎖国令が発布され、海外渡航が禁止されるとアユタヤへ新たに渡航する日本人は途絶え、町は再建されることなく歴史の中に消えていったのです。
その後、日本人町の跡地は静かに時を刻み続け、20世紀後半に発掘調査が行われるまで、長らくその存在は忘れられていたのです。
現在の「アユタヤ日本人町跡」
現在の日本人町跡は、「Japanese Village」として整備され、観光客が訪れることができます。
敷地内には小規模ながら充実した展示館があり、山田長政や日本人町の歴史を紹介する資料や模型が並んでいます。
15世紀から18世紀頃に日本人街で発見された品。
歴史的ロマンを感じます。
展示内容は日本語・英語・タイ語で表示されており、タイと日本の共同事業として運営されているようです。
展示館の外には、山田長政の銅像、慰霊碑、日本庭園風の池などが配置され、静謐な雰囲気に包まれています。
朱印船貿易とアユタヤ王国の関係
山田長政の生涯と功績
当時の日本人町の生活・職業構成
発掘された陶器・硬貨・武具などの出土品
日タイ修好の歩みを示す年表
歴史的資料だけでなく、映像や立体模型も充実しており、歴史に詳しくない人でも理解しやすい構成でわかりやすいです。
観光のポイントと旅行を計画
行き方
市街地からのアクセス:トゥクトゥクで約10〜15分。レンタサイクルでも行ける距離です。私は遺跡めぐりのついでにレンタサイクルで行きました。
近くにはチャオプラヤ川を望むレストランやカフェもあり、遺跡観光の合間に立ち寄るのに最適。アユタヤの喧騒から少し離れて、静かに歴史を感じる時間が過ごせます。
営業時間と入場料
30〜17:00(無休)
入場料:50バーツ(約200円)
観光を計画
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まとめ
アユタヤ日本人街は、観光地としては静かだが、歴史と文化の深みを感じられる貴重な場所で、両国の友好を象徴する史跡となっています。
アユタヤを訪れるなら、寺院遺跡だけでなく、この「日本人町跡」にも足を運んでみてはいかがでしょうか!
400年前の日本人が見たチャオプラヤ川の流れが、今も変わらず穏やかに続いているのがみれます。
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