1920年代から1940年代にかけて、福井県敦賀港にポーランド孤児やユダヤ難民が上陸したことをご存知でしょうか?
敦賀港は、ヨーロッパ各都市と日本を結ぶ国際港として、1920年代にロシア革命の動乱によりシベリアで家族を失ったポーランド孤児が、1940年代には杉原千畝氏の発給した「命のビザ」を携えたユダヤ難民が上陸した日本で唯一の港であり、当時のまちの人々が彼らを温かく迎え入れた「人道の港」として資料館がつくられています。
今回は、敦賀ムゼウムとはどんな場所なのか、アクセスの仕方、料金や展示物など、訪問した感想を紹介します。
本記事を書いている僕は、過去に30か国以上訪問してきた経験から、旅のコツを経験をもとに得た情報を発信しています。また、お金をあまりかけずにお得に生活するコツなども紹介しています。
目次
ではさっそく見ていきましょう。
敦賀ムゼウムって
ムゼウムはポーランド語で資料館という意味です。分かりやすく言えば、敦賀資料館ってことです。
この資料館には、1920年代・1940年代の革命や戦争の数々の苦難を乗り越えて敦賀に降り立ったポーランド孤児とユダヤ難民の史実を中心に、歴史背景や難民の心境など紹介してあります。
また、当時の敦賀市民の証言今も続く関係者との心温まる交流や命の大切さと平和の尊さなどを紹介している資料館になります。
敦賀港はそういった人々を温かく迎え入れた日本で唯一の港になります。
ポーランド孤児上陸100周年、命のビザ発給80周年を迎えた令和2(2020)年11月、人道の港 敦賀ムゼウムがリニューアルオープンし、新しい建物になっています。
外観は、大正から昭和初期に敦賀港にあった敦賀港駅や税関旅具検査所などの4棟の建物を当時の位置に復元してあり、当時の敦賀港の雰囲気が感じられる建物になっています。
アクセスの仕方と料金
敦賀ムゼウムは、敦賀湾に面したところにあり、赤レンガ倉庫からも近く、観光地の拠点になっています。
車で行く場合は、北陸自動車道の敦賀インターチェンジより約10分で行くことができ、駐車場は無料の金ヶ崎緑地駐車場を使えばOK!
電車やバスの場合は、以下の通り。
- JR敦賀駅より徒歩約40分です。
ユダヤ難民が当時敦賀湾から敦賀駅まで歩いた道を歩くのがおすすめで、歩道にユダヤ難民上陸地点跡のマークが記されています。
ユダヤ難民の歩いたところを歩いていると想像すると面白いですよ!
- JR敦賀駅前3番のりば ぐるっと敦賀周遊バス「金ヶ崎緑地」下車 徒歩約6分
- JR敦賀駅前4番のりば コミュニティバス松原線「金ヶ崎緑地」下車 徒歩約8分
料金は以下の通り、4歳以下は無料です。
大人 | 小学生以下 | |
一般 | 500円/人 | 300円/人 |
団体(20名以上) | 400円/人 | 240円/人 |
敦賀ムゼウム記念館訪問記
今回私は2022年の10月に敦賀ムゼウムに訪れてました。
展示物は1階と2階に分かれてありますが、まず1階のシアタールームで、敦賀港にまつわる人道の港と呼ばれる所以となったポーランド孤児、ユダヤ難民について、時代背景や敦賀に上陸した経緯などの全体像をシアターで紹介してくれます。
ビデオを見終わると1階から展示物を見て回ります。展示物は大きく分けて3種類あり、ポーランド孤児について、ユダヤ難民について、敦賀に上陸した人々のその後の生活のほか、再び敦賀の地を訪れたご本人やご家族、関係国との交流についての展示に分けられてありました。写真撮影OKな部分のみ、展示物を紹介していきます。
大陸への玄関 敦賀港から展示が始まります
この展示は、敦賀港はヨーロッパ各都市と日本を結ぶ国際港として発展して、多くの人々が敦賀港を利用した写真が紹介してありました。
ポーランド孤児の展示
当時、シベリアには15万人から20万人ものポーランド人や子供を含む家族が、ロシアによって流刑にされた劣悪な環境下で暮らしていたようです。
ポーランド孤児のエピソードをアニメショーンでも紹介してあり、子供でも理解できるようになっていました。
ポーランド孤児は極寒の地で、過酷な重労働をさせられ、飢餓になる人も多くいたのだとか。
このあまりに悲惨な状況を見かねて、ウラジオストク在住のポーランド人たちが立ち上がり、1919年(大正8)に「ポーランド救済委員会」を設立します。
ウラジオストクからの救済で、合計8回の763名が敦賀に上陸したのです。
15歳の時に敦賀に上陸したヴェロニカ・ブコビンスカさんが当時の出来事を記した日記です。
出迎えてくれた日本人への感謝の言葉が書かれています。
孤児たちは、大半が栄養失調で弱っており、皮膚病や百日咳などにかかり、医師や看護婦たちは手厚く看護にあたっていたのです。
日本の手厚い保護で急速に体力を回復したポーランド孤児たちは、読書や勉強をしたり、寄贈されたおもちゃで遊ぶなど、シベリア抑留時代とは考えられないほどの平穏な時間を日本で過ごすように。
帰国の途につく日が訪れ、彼らは神戸港からロンドン経由で、故郷のポーランドに帰ることになります。
子供たちは「日本にいたい」とひとしきり泣いたそうです。
乗船が始まると、子供たちは付き添い人とともに客船のデッキに鈴なりとなり、「君が代」とポーランド国歌を合唱したのだとか。
そして「ありがとう」「さようなら」と赤十字の旗や両国の国旗を振って叫び、見送る日本の人々も子供たちの無事を願い、別れを惜しんで、船が見えなくなるまで手を振り続けていたのです。
ポーランド孤児は、「日本人の優しさは忘れない。また日本に行く。」と証言していたのです。
ユダヤ難民の展示
1940(昭和15)年~1941(昭和16)年、ユダヤ難民はナチス・ドイツの迫害等から逃れるため、リトアニアのカウナス領事代理・杉原千畝氏が発給した「命のビザ」を携え、リトアニアからウラジオストクを経て、敦賀港に上陸しました。
ウラジオストク-敦賀間のユダヤ難民輸送業務等を担ったジャパン・ツーリスト・ビューロの職員・大迫辰雄氏が残したアルバムが展示されています。
アルバムには、献身的に接したことに対する感謝の気持ちとして乗船客から大迫氏に手渡された写真が収められています。
敦賀に上陸したユダヤ難民たちを当時の敦賀市民は温かく迎え入れ、敦賀上陸当時の詳しい状況に関する市民証言が数多く残されています。
例えば、ユダヤ人を学校帰りの小学生が敦賀駅前でみたとか、旅館に泊まっていた、きている服がヨレヨレなど、ユダヤ人が敦賀にいたことを市民は証言しています。
これはユダヤ人が残した実際の腕時計です。
お金に変えるために、腕時計や指輪などの貴金属を時計屋さんに持っていたようです。
命のビザ(レプリカ)が展示されています。
この恐ろしい時代に、日本の外交官である杉原千畝は、もし見つかれば自分も殺されることを承知で、ユダヤ人のビザ発給に尽力したのです。
彼は「諸国民の中の正義の人」と言われ、ホロコーストの時代には1万3千人のこれら勇気ある人々がいたことが知られています。
ホロコーストの展示については、広島県福山にあるホロコースト記念館にナチスドイツの迫害を受けたアンネ・フランクをはじめとする数多くの展示がされています。こちらも非常におすすめの記念館なのでぜひチェクしてみてください!!
【広島福山市】ホロコースト記念館 訪問記 アクセスの仕方、料金や展示物など紹介 アンネフランクの形見があるぞ
二階の展示
二階はポーランド孤児、ユダヤ難民のその後の生活や、ご本人や子孫たち、関係国との交流を紹介されていました。
ポーランド共和国の紹介もされています。
ポーランドと日本の間には深い絆が結ばれており、ポーランド孤児救済の恩返しに阪神淡路大震災の被災した子供たちがポーランドに援助されるなど良い関係があることを紹介してありました。
まとめ
資料館を出て、目の前に広がるのがポーランド孤児やユダヤ難民が上陸した敦賀港です。
ポーランド孤児は、この穏やかな敦賀港を見て、「平和で穏やかだ」と回想しています。シベリアの極寒の地に比べれば、日本の気候は穏やかで、日本の暖かい出迎えにホッと心を落ち着かすことができたのではないかと思います。
ぜひ皆さんも、福井県旅行する際はこの敦賀ムゼウムに訪れてみて平和を考えてみてはいかがでしょうか!
また、敦賀湾の近くには舞鶴湾もあり、1950年代にシベリア極寒の地で抑留生活を強いられた戦争抑留者の引き上げ港になって引揚記念館があります。興味のある方はぜひ行ってみてください!
【京都舞鶴】引揚記念館訪問記 シベリア抑留の悲惨が学べるぞ 展示品はユネスコ世界文化遺産に登録
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